Chinaの車窓から 天津篇(6)

27日。起床後チェックアウト。宿代の安さを不審に思ったのか、窓口の従業員が値段を確認する一幕もあったが無事開放される。友人と朝食を食べてからだらだらとしゃべっていたせいで外出が遅れる。とはいえ、彼女もネタ切れのようでどこに行くかは決めていないという。それならと地図を眺めた結果、旧天津城の北西方向、鈴鐺閣というところを目指すことにする。旧天津城の北西角から北に向かうと以前行った清真寺、西に向かうと鈴鐺閣に着くはずだ。
タクシーを拾って現地へ向かう。道中二人で「まあ城隍廟の二の舞かもね」などと話していたのだが、現地に近づいても一向にそれらしい建物が見えてこない。周囲は大きなマンションが立ち並び、とても寺や廟があるようには見えない。しばらく進むとようやく一つ、何かの廟のような建物が見えた。運転手がおれたちを残して近所の住人に尋ねに行く。彼はすぐに戻ってきて、鈴鐺閣はもう無くなったと教えてくれた。本当に城隍廟の二の舞だと当時は思ったのだが、北京に戻ってから調べてみたら鈴鐺閣は光緒18年に火事で焼け、その跡地が中学校になったということだった。あの地図は最新版のはずなのだが。
ともあれ、タクシーを降りてすぐそばに見える廟のような建物に近づいてみる。恐ろしく手入れが行き届いた様子から最近修復したことがありありと分かる。呂祖堂という名前が地図に載っているが、門が閉まっていて入れない。これまたあとで調べてみると、かつての道観であり、天津付近で活動した義和団の拠点だったようだ。愛国主義教育基地の看板がかかっていたのもうなずける。
結局二つとも空振りに終わってしまったのだが、だからといって気分を損ねるまでには至らない。本当に天気が良かったのだ。さしあたって、来る途中のタクシーから見えた、古ぼけた街路を目指す。着いてみると、ここもまた本物の胡同だった。
鈴鐺閣はもともと蔵経堂だったというから仏教のはずだ。しかし現在のこの一帯は明らかにイスラム系の住人が多い。実際、地図には載っていない清真女寺を見つけた。胡同そのものの住所は「○○寺南街」という類の表記がされている。鈴鐺閣のことか、イスラム系か、それとももっと別の寺院があったのか。古地図でも見てみれば何か分かるのかもしれないが、さすがにそこまでは手が回らない。

それに、こうしたことは皆北京に帰ってきてから調べたことで、当時はいつもどおり、胡同の風情に全身で浸っていた。おれにせよ友人にせよ、留学以前からこうした風景への憧れは中国に対する愛情の一部を形成していたのであり、それゆえこういう場所にいるということだけで十分いい気分になれる。安上がりなものである。
留学してすぐのころとは違い、今なら一般の中国人が胡同に特別な愛着を持つことは少ないということや、実際に胡同に住んでいる住人にとっては生活水準の向上のほうが重要だということを知っている。中国の景気の良さについては楽観的な見方も懐疑的な見方も耳にするけれど、おおかたの中国人は今が上り調子であることを信じてやまないし、そうした流れの中で豊かさに目が向くの当然のことだ。そしてそうした上昇志向を、日本の生活に慣れきったおれが批判できるはずもない。とはいえ自分の趣味は裏切れないわけで、そうなるとおれにできることは、取り壊される前にそれらを記憶と写真とに収めることになる。
帰りの列車は3時くらいである。時間が中途半端なせいで、駅の近くで昼食を取るほうがあとあと便利だろうということで、天津駅まで移動。駅近くの店には彼女も詳しくないということなので、結局某ファーストフードへ。食後にしゃべっていたらすぐに改札が開く時間になった。駅の入り口で友人と別れて列車に乗り込む。4時半くらいに北京に帰り着いた。