Chinaの車窓から 四川篇(1)

実は車窓じゃないわけですが。

7月15日。出発当日である。今回の同行者は母と母の友人O、目的地は九塞溝だ。個人的には風光明媚なところよりは歴史や文化の香りに惹かれるわけだが、今回は基本的に親孝行のつもりでいた。そもそも、母が最初に九塞溝に行きたいと言い出したのは随分早い時期だったが、その後例の反日騒ぎもあって、おれ自身母親の安全に責任が持てるかどうか自信が無くなっていた。そのせいで一度はこの旅行プランも消えかけたのだが、この時期にはもはや反日などはたいしたことがないとはっきりしていたので、おれからもう一度この話を蒸し返し、母も同意したというわけである。
普通九塞溝に行くにはツアーに参加するのだが、日本の旅行社が手配する旅行はどれも馬鹿みたいに高いものばかりであり、一方で中国のツアーとなると中国人と一緒になることが目に見えている。同行者がもしも中国語の話せる人であればそれでも何も問題なかったのだが、母たちにそれを望むべくも無く、また二人に余計なストレスを感じて欲しくなかったので個人旅行を選択、チケットを中国の旅行社で手配して、あとは三人だけで行動するという形にした。こうなるとあらゆる場面でおれが交渉にあたる必要があり責任はかなり重大なものとなるが、旅行経験はそれなりにあるし、どうせどうにかなるだろうと気楽に構えていた。
さて当日、午前中に知人から紹介してもらった中国の旅行会社に航空券を受け取りに行く。そう、今回は飛行機なのである。おれが友人と旅行に行くとなれば当然列車の旅になるが、今回は同行者の年齢と経済力を鑑みて、飛行機を選択したのだ。大学に戻るとき、タクシーの運転手に日本軍の蛮行を知っているかと聞かれててこずった。おれが留学してからタクシーで議論をふっかけられるのは二度目だ。10ヶ月に二回という数字が多いと見るか少ないと見るかは人によるだろうが、ともあれ彼の口調も詰問調ではなく、話題のわりには比較的穏やかに別れる。しかし、これから旅行に行こうというときに出くわさなくてもよさそうなものだ。
母とOには大学の中にある寮兼ホテルに泊まってもらっていた。もっといいホテルだって山のようにあるが、二人とも中国語はおろか英語もしゃべれないとあっては近くにいてもらうしか無かったのだ。とはいえそれほどひどい部屋でもない。二人の部屋に行ってチケットを見せ、帰京後の部屋の予約とチェックアウトをすませて空港までのタクシーに乗る時間を待つ。
空港への足には、北京に着いた二人を空港まで迎えに行くときに使ったものと同じ運転手の黒車(不正規のタクシー)を頼んだ。迎えに行くときに喋った感じが悪くなかったからだ。ところが今度の空港への車中では、値段交渉の延長みたいな腹の探りあいをやっていたせいでけっこう気まずい思いをする羽目になった。もっとも、これは中国語が分かる運転手とおれだけの話であり、二人にはそうしたことは一切伝わっていなかったはずだ。一般に市内から空港まで黒車で行く場合、往復となる迎えと片道である送りだけとでは、迎えのほうが片道あたりの値段で計算した場合安くなる。行き帰りの両方に客が乗ることになるほうが彼らにとっては都合が良いのだろう。とりわけ、警察がうようよしていて自由に客を拾うことなどできない空港となれば、彼ら不正規タクシーが神経質になるのも無理はない。
飛行機は午後2時のはずである。国内線に乗るのは二回目のおれは、ガイド役を務めなければならない人間にしては恐ろしく頼りないありさまだったが、とにかく搭乗手続きを完了して搭乗を待つだけとなった。ところがここからが長かった。飛行機が遅れに遅れたのである。こういうときについ「ここは中国だし」などと考えてしまいそうになる自分を戒めつつ、ひたすら待った。結局飛行機が離陸したのは午後4時くらいだったろうか。最初の目的地は成都、ここで一泊してから九塞溝を目指すことになる。
おれは飛行機という乗り物が大好きで、しかもたまたまおれが窓側だったので少しも退屈しなかった。成都に着いたのは午後7時近かったろう。暑いところと聞いていたが、前日に雨が降ったそうで過ごしやすい。なにより、久しぶりに来た南方は北京よりも格段に湿気があって快適だ。まずタクシーを拾ってホテルへ移動。運転手は恐ろしく調子の良い男で、聞いてもいないのに成都周辺の観光地について説明してくれる。九塞溝についての話を聞くと、とにかく気温が低いということを繰り返す。このことは事前に知ってはいたが、おれが寒さ対策で用意したのは長袖のTシャツ一枚である。いささか不安になったが、ここまで来て服を買うのも癪なので無視することにする。
ホテルにチェックインを済ませて、中にあるレストランで食事。なるほど一介のレストランといえどもここは四川である、出てくる料理は皆相当辛い。おれはともかく、二人はけっこう大変そうだった。それでも料理の値段の安さは二人を驚かせるに十分なもので、とにかく空腹を満たし終わったおれたちは、明日の予定を確認すると早々に眠りに着いた。