東洋鬼

中国語圏で日本人を罵倒するときに使う有名な言葉がこれですが、今日始めて耳にした。こう聞くと何人かは期待に胸を膨らませるかもしれないが、別におれが罵倒されたわけではなくて、友人の台湾人が「どうせこいつには分かるまい」と思って軽く口にしたところを耳ざとく聞き分けたに過ぎない。いずれ聞くことになるだろうと思っていたけれど、予想よりも早い。言われてみるとけっこうむかつくもので、つい「今度戦うときは…」などと考えてしまう。

もっとも、こっちに来てから常々思うのは、日本軍は本当にアホだったということと、モンゴル軍は本当に強かったということ。この国を征服できると思っていた日本軍は気が狂っていたとしか思えない。一方、この国を本当に征服した非漢民族であるモンゴル軍の強さは想像を絶している。清朝を建てた女真族もいるが、あれだって相当のものだ。それくらい、中国は大きい。いろんな意味で大きい。ろくに旅行もしていない段階でいうセリフではないけれど、でも心からそう思う。

中国歴代の皇帝は黄河の治水に頭を悩ましてきたわけだが、黄河とは人民の比喩なのではないかと思う。知っている人も多いだろうが、中国人はたいてい信号を守らない。公安が見張っていたりとか、柵があって物理的に不可能な場合ならばともかく、少しでも前進できる可能性があれば突っ込んでいくのが中国人だ。これを、歩行者と全ての車種の車とがやっている。タクシーに乗っているときはまだいいが、バスに乗っているときに、自分の乗っているバスと別のバスとが、車体を張って進路を争うさまを車内からながめるのは流石に気味が悪い。しかも、そうやって自動車同士が争うなかを、隙間を縫って自転車や歩行者がすり抜けていく。横断歩道でも事情は同じで、車も人も隙間を見つけては突っ込んでいく。ひどいやつになると、自分から突っ込んで行って隙間を作る。たとえ信号があろうとあまり問題ではない。車列が絶え間なく続いているところへ、しびれを切らした歩行者が突っ込んでいくところをよく見かける。一人が先陣を切ると、周囲の歩行者が次々と横断を始める。自動車のほうでは、歩行者の人数が少ないうちはなんとかして車列に隙間をつくらないようにして歩行者の侵入を防ごうと努めるのだが、やがて歩行者の数が増えると車列は否応無く寸断され、歩行者がいなくなるまで待つはめになる。「みんなで渡れば…」の典型、数の暴力である。こうした光景を形容するのにもっともふさわしい言葉は「堰を切ったように」だ。故毛主席は「五億の民が死んでも残りの五億がヨーロッパを席捲する」とか何とかいったらしいが、この土地にあっては、まさしく数とは力だ。こんなところに攻め込むなど、正気の沙汰ではない。

で、明日はその愚行の記録を見てきます。行き先は抗日戦争紀念館。日本人ばかりでいくのだけれど、無事に済むのだろうか。どうなることやら。