治安と人間関係の話

今日は雪が降った。おれが北京を空けてる間に一度も降っていないなら、今日が初雪になるのだろう。東京は暖かいようだし、こっちもどうやら暖冬らしいけど、おれには十分こたえる寒さだ。
おれが北京に来てまだ間もないころ、道路わきに停めてある自動車に肩がぶつかったら、けたたましいサイレンの音が鳴り響いたことがあった。こっちの車はたいてい盗難防止装置がついているのだ。今でこそすっかり慣れてしまったが、あの時はおおいに驚いたものだ。三ヶ月が経って、おれも最早サイレンごときでは驚かなくなってしまった。街を歩いていればあちこちでサイレンが聞こえるためだろう、道行く人たちも誰も驚いていない。これで防止になるのかと危ぶまれるくらいだ。
おれは夜の胡同をうろついたことがあるけれど、特に身の危険を感じた事は無い。入学直後のオリエンテーションでは、公安の人が「タクシーに注意しろ」とかそういった注意点をいくつも教えてくれたけれど、今のところ一度もトラブルには遭っていない。ニセのタクシーに捕まりそうなったことはあるけれど、相場さえわかっていれば本物よりもかえって使いやすいという話もある。そういう意味ではさほど危ない土地だとは思わない。聞いた話では、わざと遠回りをして値段を吊り上げる悪い運転手もいるようだが、おれは幸いまだそういう運転手には当ったことが無い、と思う。
ただ、自動車にはたいてい盗難防止装置がついていることからも分かるように、盗難は多い。携帯や自転車が盗まれたという話は枚挙に暇がない。こっちの携帯はSIMカード方式だから、電話機そのものを盗んでから自分でカードを買い換えれば、盗品だろうと問題なく使えてしまうという点も大きいだろう。おれが自転車を買ったときも、カギと自転車の値段の合計金額のうち、カギの値段が占める割合は30パーセントほどにもなった。ある知人は今年だけで二台自転車を盗まれている。
本屋などでは荷物を持ったまま店内に入ることを許さない店が非常に多い。入り口で預けさせられるのだ。博物館やスーパーなどにも多い。人間をまず疑ってかかるという姿勢が徹底している。至るところで押金というデポジットを要求するのもその現れだろう。ホテルなどはまだ理解できるが、大学の図書館で貸し出し証を作るときにまで要求されたときは呆れた。何事も無ければ後で返してもらえる金ではあるが、あまり気分はよくない。
こう書くと、中国社会があたかも人間不信に満ちたぎすぎすした社会に見えるだろう。それはある程度当っているのだが、その一方で、一度仲間と認めた人間に対する相互扶助は日本の比ではない。おれも幾度となく中国人の友情に感激させられてきた。思うに、この国の人間関係は味方(家族、恋人、友人)とそれ以外であって、そしてその味方以外に対する警戒心は、日本よりもはるかに強い。最近の日本は随分治安が悪化したせいで皆神経質になって来ているが、中国の場合はなんというか、もっと自然な印象がある。少なくとも、日本で夜道を歩いていて突然センサーつきの電灯が点いたときに感じるような不愉快さはない。これは多分、日本のほうが特殊なのだろう。
誰のものだったろうか、「おれは世界中の人間を愛することができる、だが隣人だけは愛することが出来ない」とかいう文章を読んだ記憶がある。中国とは正反対の世界観だ。以前大学で、儒学の理想とする人間関係は同心円モデルだと教わったことがある。例えば墨子の主張は兼愛説で、あらゆる人間が均しく愛の対象になる。ところが儒者から言わせれば、こうした考え方は人間の本性に一致しないものとして批判される。道端ですれ違うだけの人よりは友人が、友人よりは家族が大事だと思うのが人間であって、重要なのはそうした区別に正しい秩序を与えることだとされる。中央に自分、その一回り外側の最も中心に近いところには家族、その外側には友人、最も外側にはそれ以外の人間。
以前この日記に、儒は基本的に人民と無関係の思想だったろうと書いた。その考えは今でも変わっていないけれど、このモデルだけは現在の中国でも一般に通用しているように思える。