先日

中国人の友人とバスに乗っていたときのことだ。車内は例によって馬鹿みたいに混んでいて、彼と二人で文句を言いながらつり革につかまっていたのだが、そのうちに席が一つ空いた。彼はおれに席を譲ってくれて、おれもそれに甘えて座らせてもらったのだけれど、やがて老婆が一人乗ってきた。彼に促されたこともあり、またおれ自身こちらの風習に従う意思があるので、普段一人でいてもそう心がけているように、老婆に席を譲った。
中国人は日本人よりも一般的に我が強いが、その一方でこうした規範も強力で、電車であれバスであれ、老人が座れないことはほぼありえない。必ず誰かが席を譲る。必ずである。例えばバスに乗っているときに老人が乗ってくると、車掌が近くに座っている人間に対して席を譲るように頼む。これを拒否すると下車させられることすらあるそうだが、おれはまだ目撃した事がない。
そのときにその友人に向かって、「おれは日本ではこういうことはやりにくい」と言うと彼は「なぜだ」という。当然の質問だが、これはかなり答え難い。結局彼が納得するような回答を与えることはできなかった。
日本にいたころ日々感じていた、人間と人間の間に透明だが強力な膜があるような感じを、彼に向かってなんと説明したらよかったのだろう。誰に言われたわけでもないのに、実質的には沈黙を強制されているようなあの感じ。それに加えて、規範的なものをたてにとって主張することに対して感じるある種のいかがわしさや、コストパフォーマンスの悪さ。
日本でも地方に行けばまた違うのだろうが、少なくとも東京にいるころにおれが感じていたこうした感覚は、北京に来てからついぞ感じた事が無い。陰と陽の対比とでもいうべきか。しかし、ほかのどんな都市と比較しても、東京以上に陰気な感じのする場所は無いのではないだろうか。特に根拠はないけれど、そんな気がする。
一応付け加えておくと、別に東京が嫌いだと言いたいわけではないです。おれが興味があるのは、何が違い、そしてそれは何故なのかというところ。