Chinaの車窓から(2)

文革の名残。

1日。朝七時半くらいに起床。いまいちよく眠れなかった。気温のせいかも知れない。近頃は、朝晩にはそれなりに冷え込む。前日の天気予報が10度くらいと言っていたので警戒していたのだが。雲はまったくないので、昼過ぎにはどうせ暖かくなるに決まっている。眠い目をこすりつつ、それでも身支度を整える。

八時半に迎えがくる。恐らく休日で学生が少なくなっているためであろう、学生食堂が早々と休憩に入ってしまっていたので学外で朝食。食後にまず文廟を目指すことに決める。孔子を祀った廟である。ここの文廟は保存状態がよいと聞いているし、おれの専門ならば見に行くべきものである。最初に乗ったタクシーに目的地を告げるが、運転手は場所を知らなかったのだろう、別の運転手に道を尋ねていた。いささか不安だったが無事に文廟へ。国慶節らしく周囲に出店が多い。なぜか陶器の壷ばかり売っている。しかもおれの胸くらいまで高さがある巨大なもので、中には昨日の雨が残っていた。どんな客が買っていくのだろうか。

廟は確かに立派なものだったが、思ったよりも小さい。中には清代の扁額がいくつも残っていた。知人が以前に来たときには写真を取り放題だったと聞いていたので、おれも勇んで取ろうとすると止められた。ツキが無いらしい。同時に「中国古代考試文化展」というものをやっており、科挙の歴史がそれなりに詳しく紹介されている。日本でも有名なカンニング下着も展示されていた。

おおむね展示を見終わったころにトイレに行きたくなったので、彼女を残してトイレを探す。すぐに見つかったのはいいのだが、入り口の外側にカギがかかっている。これでは何人といえども入ることができない。近くにいた掃除のおっさんに文句を言うと、彼は「大か小か」と聞いてきた。小だと答えると、なんと彼は壁と建物の間の細い隙間を指差して、「誰も見ていない」と言って笑う。こうまで言われてはもはやためらう理由は無い。文廟で立小便である。忘れ難い思い出には違いない。

文廟を後にして、鼓楼周辺へ移動。かつての天津城の中心に位置しており、現在では昔風の外観を売りにした商店街がある。浅草に近い感じといえば想像しやすいだろうか。辺りの出店で焼きそばを買う。食後、鼓楼内の博物館と戯劇博物館とのチケットを買い、まず鼓楼へ。展示そのものは党の自画自賛に終始した。天津の再開発政策に人民の努力を集中せよ、とかいった感じ。むしろ、その再開発で家を追われる人々に注意が向いて仕方が無い。しかし楼上は眺めがよく、また気温も上がり天気は快晴で気分がいい。中国北方は秋に限る。

次いで戯劇博物館へ。中では京劇についての展示がされているのだが、展示されている人形よりも劇の原作が気になってしまう。もっとも、おれが京劇方面に弱くなければもっと違った見方ができたろう。しかし、ここの最大の目玉は建物そのものである。約百年前に建てられたものなのだが、これも四合院といってよいのだろう。中庭に立つと、わずか数百メートル先にある商店街の喧騒が全く聞こえない。四方を囲む回廊の中にあるこの石畳の中庭は、静寂に満ちた別世界だった。ここに住んでみたいという欲求に駆られる。内部の装飾も素晴らしいという話だが、勉強不足でよく理解できなかったのは悔やまれた。

ともあれ、おおいに気を良くして次の目的地、城隍廟へ向う。その土地の守り神を祀ったものである。ところが、地図に記載された場所は更地になっており、瓦礫の山が点々としているのみ。聞きしに勝る再開発ぶりに唖然とする。まさか無くなっているとは思わなかった。地図だって最新版のはずなのに。

やむなく次の目的地、清真寺へ向う。イ○ラム教の寺院である。中国に来る前から北京にはかなりの量のイス○ム食堂があると聞いてはいたが、その数は予想をはるかに上回っていた。なにせ、おれの大学の構内にすらイスラ○料理の店があるくらいである。

寺院は旧天津城外の北西の角に位置している。近づくにつれて胡同が目に付くようになる。北京同様、城壁の中に人が入りきらなくなってから、壁の外に家を作っていった名残なのだろう。当然のようにイ○ラム料理の店も見えてきて、鶏が歩道を闊歩していた。しかし、この周囲にも再開発の波が容赦なく迫ってきている。いたるところに取り壊しを示す「拆」の文字が書かれており、あまつさえ政府系引越し業者の広告がこれでもかといわんばかりに貼ってある。昼に見た鼓楼博物館との著しい対照に気が滅入る。

目的地の寺院に着くと、まず受け付けで記名をさせられた。ついで拝観料を払うのだが、これは志であって、決まった額が無いという。向かいの売店もまるでやる気が無く、観光客から金をしぼろうという意思を少しも感じさせない。盧溝橋とはえらい違いである。結局、あまり安くても情けないので少し多めに払う。しかし、それだけの価値はあった。

我々が入り口にしたのは正門の向って右にある通用門のようなところで、したがってすぐ左に正門がある。中庭は戯劇博物館同様に静まりかえっていて、誇張抜きで風の音しか聞こえない。まず回廊をつたって正門を内側からのぞいてみると、電灯がついていない門楼のなかには文革の名残である、赤い「追求知識」の四文字が。まさかこのせいで門を使わないわけではあるまいが、明かりがついていない理由ではあるだろう。

正門の正面には礼拝所(名称は適当です)があって、本日の礼拝時間が入り口横の小さな黒板に書いてある。今でもこの寺院は機能しているのである。時間がうまく合えば見てみたかったが、まだ次の回までは間があったし、そもそも旅行者に見せてくれるかどうかもわからない。それでも中をのぞくと、清代の歴代の皇帝から下賜されたおびただしい数の扁額が掲げてある。人がいないのをいいことに写真をとってしまった。

礼拝所の右奥には居住区が。沐浴所と、沐浴の意味を説いたコー○ンの一節が書かれた看板がある。通りかかった女性は当然のようにベールで顔を隠している。さらに奥には炊事所があり、立派な髭をたくわえた、異民族らしき壮年の男が石炭を運んでいった。これから料理にかかるのだろうか。中庭に戻ると一基の石碑が目に付いた。石碑の上部は古いようだったが、石碑本体は90年代に修復されたものだ。文面は明代の皇帝二人が出したイスラ○教を賛美する文章である。修復当時は、寺院の復権を象徴していたのであろう。

あらゆる意味で、おれが今まで見知ってきた中国とは異質の世界。そもそも、おれは敬虔なイ○ラム教徒の中国人など想像していなかったのだ。しかし、ここにあるのはまさに敬虔としか表現できない生活であって、彼らの姿には他人に対して訴えかけるだけの強さがある。彼女は「こういう人生もあるんだ…」と感嘆の声を発したが、これは恐らくここを訪れるものの素直な感想だろう。おれにとっても素晴らしい体験だった。

余韻に浸りつつ、胡同のなかを進む。やはり、あらゆるところに「拆」と広告。なかにはすでに廃墟になったところも少なくない。まるで爆撃を受けたかのように、かつては住居であったはずの石がただの瓦礫の山と化している。政府が出す立退き料は小額で、到底新しい住居など手に入らないという。先ほどの寺院とその周囲の胡同も、いずれは取り壊されるのだろう。あの敬虔な人たちは、そのときどうするのだろうか。

歩き疲れて二人で道端に座って休みをとった。そこはすでに再開発後の通りで、日本でみるような敷石が敷き詰められた歩道ができている。その近くで日向を見つけて休んでいたのだが、そのおれたちの正面に一人の老人がいた。彼はただ、のんびりした歩調で円形の歩道をぐるぐると回っていた。おれたちが休憩していたのは二十分くらいだと思うが、彼もほぼ同じくらいの時間を、ただひたすらそこを回るのに費やしていた。その姿におれはおおいに感じいった。こういう光景を楽しめるなら、きっとその人は中国を楽しめるだろう。最初の日記に少しだけ書いたように、おれは北京に着いてからしばらく胡同近くに宿をとっていた。いずれ必ずあの時期のことを書くつもりだが、あの時期は日々こうした光景を目にしていたのだ。悠久と呼ぶにふさわしい、ゆったりとした時間。そしてここ天津で目にしたのは、そうした時間と、それに迫りつつある再開発である。これは、租界についても言えることだった。

続きは明日書きます。ところで、画像って一日に一枚だけしか載せられないのでしょうか?もっと載せたいんだけど、誰かやりかた知っている人がいたら教えてください。自分で調べるのがいいんでしょうけど、楽できたらいいな、と。