Chinaの車窓から 山東篇(1)

山頂付近から。

約束の泰山について。ここも世界○産に指定されている。標高は1500メートル強、おれの体力では十分きつい山だった。

12日の午後四時過ぎ、学会参加者たちのバスはおれたち四人を泰安の町に下ろすと済南へと消えた。四人とは、おれと、おれを今回の学会に誘ってくれた同じ大学に留学中の留学生Mと、日本でのMの指導教官S先生と、Mと同じくS先生のゼミに居る韓国人留学生Wである。

バスの中から初めて泰山を見たときは、なるほど立派なものだと思った。平坦な大地のまん中にごつごつとした岩山がそびえるさまは、見る者が仮に、あの山が中国人の信仰を二千年以上集め続けている山だと知らないとしても、何かしらの感慨を覚えさせそうだった。Mは三度目の泰山なので、彼が今回の案内役になる。まずタクシーを拾って泰山のふもとのホテルへ移動。天津でもそうだったが、地方に行くとタクシーが一気に安くなるのがうれしい。初乗り料金が北京の半額なのである

カウンターで予約を確認するが、別の部屋を勧められた。われわれが外国人であるために、安い部屋に泊めて後から文句を言われるといやだ、みたいな説明を受けるが、実際は金をもっと使わせようという魂胆だったのかも知れない。一行の中でもっとも中国語に長けたWが交渉を一手に引き受けてくれる。部屋代を値切り始めたときにはいささか驚いたが、ホテル側が実際に値段を下げたときにはさらに驚いた。中国では、場合によってはホテルすら値切れるということを初めて知る。結局、予約どおり一番安い部屋にする。全員の部屋代は先生が持ってくれた。いささか申し訳ない気にもなるが、うれしいことに変りはない。

昨日は夜行列車に寝たので、全員の最初の希望は風呂だった。まずは部屋に移動して汚れを落とす。外で食事の後、明日の泰山登りについて相談。そもそも泰山は、中腹(だいたい800メートル強くらい)まではバスで行くことができる。さらに、そこから頂上付近までロープウェイが出ているので、その気になればほとんど体力を使うことなく登ることができる。一人だけ体力があまっていたWは歩くと決意しており、ひとりで別行動と決まる。残りの人間は、当初は全行程で楽をしようという意見が強かったのだが、おれがそれではあんまり情けないと主張。まずロープウェイ乗り場までは歩いて登り、その後は体力次第となった。龍慶峡と同じ展開である。あのときの登山のせいでおれは自信を回復していたのだ。状況によっては全行程歩くつもりでさえいた。

翌13日は朝八時半に集合。外は晴れてはいるのだが、いささかもやがかかっていて見通しが良くない。ともあれ準備を整え、外で食事の後いよいよ泰山の登山口へと向う。岱廟から北へ伸びる、泰山の登り口へと続くゆるい傾斜の道路を十分ほど歩くといよいよ泰山である。周囲の土産物屋も杖、鉢巻、地図といった、いかにもな品揃えになる。

小刻みな石段と、石畳の道の両側には早くも廟の類が並び始める。最初に目にしたのは関帝廟。おれにとっては横浜中華街以来である。入ってみると、廟の中には巨大な像が。無料らしく見えたことと、登山の安全祈願も受け付けているということから、記念に拝んでみた。横にいるおじさんが拝み方を教えてくれる。ところが、拝み終わって帰ろうとすると記帳を求めれられた。よく見ると記帳された名前の横に金額が書いてある。ここで初めて「やられた」と気付くがもう遅い。仕方がないのでいささかの金を出す。Mが最初から参拝に消極的だった理由がようやく理解できた。それからは、他の廟に入る際には以前に倍する警戒心を使うようになった。別にそこまで貧乏なわけでもないのだが、観光地なのをいいことに稼ごうとする連中に対して腹を立てていたのだ。そこからは、入場無料のところくらいしか見ることなく前進する。今思えばかなり大人気ない旅行者である。

石畳の道は山肌に沿って続いており、右側が下り、左側が登り斜面になっている。右手の樹木の向こうには渓流が見え、水の流れる音が聞こえてくる。もうすこし時期が遅ければ紅葉が素晴らしいところだろう。左側は基本的に林になっているが、その樹木の間にはところどころに大きな岩が転がっている。やがて左側の林と道の間には岩肌が目立つようになり、その岩肌には清代から民国にかけての碑文がおよそ10メートルおきくらいに刻まれている。石碑も多いが読めないものばかりだ。岩壁はかなりの高さを持っていて、今にもくずれてきそうなところも多かった。道の両側には小さな土産物屋や果物・水などを売る露店が点々と並んでいる。剣道六段の所持者でもある先生は、露店で杖を買った。得物を持ったうれしさからか、おれたちに剣道について講義を始める。まだまだ全員元気である。

やがて万仙楼が見えてきた。横の切符売り場で入山料と保険金、合計52元を払っていよいよ入山である。

傾斜のゆるい石畳の道と、足場のせまい石段が続いている。ここでは頂上までの道のりは全て石で舗装されている。いつごろこうなったのかは知らないが、1500メートル強の高さまで通じる道の全てを石で覆い尽くさせたのだからすごいものだ。明代までは皇帝自身も山頂まで登っていたという。道はあちらこちらが補修中で、大勢の作業員が群がって、あるところでは石畳を掘り返し、あるところでは石段を組みなおしている。2008年までに面目を一新するつもりのようだ。おかげでかなり歩きにくい。

事前に聞いた話では登りよりも下りがきついということであったが、実際に来てみるとその理由がわかった。石段が、高低差がきついわりに足場が狭いせいだ。皇帝が登るときにはどうせ自分の足で登ったりしないのだろうから、皇帝をのせて運んだ人夫たちの苦労が思いやられる。そして、その石段はおれたちの体力を確実に削いでいく。

徐々に軽口が減っていく。先生ももはや杖を振り回すことなく黙々と歩く。おれとMも荒い呼吸をして汗を流しながらゆっくりと進むのみ。水の類は十分に用意してきたのでその点は問題ないのだが、体力の低下は蔽うべくも無い。前方は樹木に遮られて見通しが利かず、あとどのくらい歩けば中継点であるロープウェイ乗り場になるのかが分からない。そして、ますます石段は険しくなっていく。

途中、先生が中国人の駕籠かきから声をかけられる。平行に並べた二本の棒と椅子を組み合わせただけのシンプルなものだ。落とされたらたまらないといって先生は断っていたが、おれとしては駕籠かきがどうやってあの急な石段を登るのか見てみたかった。

歩くこと二時間あまり、ようやく中継点である中天門が見えてくる。これまででもっともきつい石段をどうにか登りきって平らな場所に立ったときには心底ほっとした。この時点で、おれが全行程を歩くという意思を失っていたことは言うまでもない。したがって、次に目指すはロープウェイである。歩くより格段に楽なのは確実だが、おれは悪い予感にとらわれていた。