Chinaの車窓から 山東篇(3)

岱廟の城壁から見た泰山。

昨日と一昨日の日記をすこし編集し直しました。長さが不均等だったせいです。よかったら一昨日の日記から読み直してください。若干付け足してあるだけなので、一度読んだ人ならそれほど手間ではないはずです。

14日は比較的時間に余裕がある。ゆっくり岱廟を見てもまだ時間が余りそうだった。昨日の疲れもあって今日は誰も無茶をしたがらない。朝食の後、11時くらいにチェックアウトを済ませてから荷物を預けて岱廟へ向かう。

普通なら南から入るはずの岱廟だが、ホテルとの位置関係からおれたちは北門から入った。ここは泰山の神を祭った廟で、漢代の文献には既にその名が見え、宋代に今の廟の原型が定まり、その後修復を繰り返しながら現在に至っている。建物自体には手が入っているが、全体の建物の配置などは宋代のころからほぼ変らないという。敷地は非常に広い。秦代の石碑の残骸と称するものすら残っているくらいで、宋代や元代の石碑さえ珍しくない。ところで、こちらの石碑は拓本をとったものとそうでないものが一目でわかる。とったものには墨が残っているからだ。もう少しきちんと洗い落とせば良さそうなものだが。

正殿である天キョウ殿には拝観料を払って入らねばならない。ここは宋代に最初に建てられたもので、そのめずらしい建築様式から中国三大宮殿にも数えられている。内部にある壁画が見たかったおれは、泰山とは違ってすっかり普通の旅行者気分になっていて、金くらい払ってやるというつもりでいた。Mが以前の記憶から拝観料は一元だと教えてくれたが、実際に入ろうとすると六元だという。あきれて帰ろうとすると小姐は慌てて一元に下げた。たぶん多目に要求して小遣いにするつもりだったのだろう。油断も隙もあったものではない。壁画は確かに素晴らしいものだったが、ここも随分と荒れている。手の届くくらいの位置にはかなりの傷だ。例によって文革でやられたらしい。なんて愚かなことをやってくれたのだろう。

廟内には巨大な銀杏の木があって、その下ではここで働いている中国人がパチンコを使ってぎんなんを取っている。平和過ぎるくらい平和な秋の日だ。ここにもかつて紅衛兵が来たことなど想像しにくい。しかし、廟内に大量にある石碑にも彼らの爪跡は確かに残っている。一度壊されたのちにつなぎ合わされた石碑、破壊を逃れるために埋められていたために色が変ったままの石碑、隠されて破壊を免れたものの、まだ本来の位置に戻されずに地面に積み上げられたままの石碑。

とはいえ、そんな感傷に浸っていると土産物屋の店員たちが近寄ってきて、例によって日本語で「たくほん、たくほん」と言いながら写真集を売りにやってくる。世界○産になる前だって一級の観光地だったのだからまあ当然ではある。しかしなぜ一目で日本人だとばれるのだろう。大学の中ではしばしば中国人と間違えられるというのに。

Mと二人で片っ端から石碑を見て回る。二人でこれは宋代、あれは明代とかしゃべりながら見ていると、一つの宋代の石碑の前で足が止まった。子供が石碑の台座によじ登っているのだ。日本の子供だって制止されなければこのくらいのことはやるだろう。だからこれは、中国人の気質がそうさせているとかいうことではない。しかし800年以上前の遺物をもうちょっと大事に保存しようという気にはならないのだろうか。せめて柵くらい作ってこういう子供から石碑を守って欲しいものだ。

3時間あまりかけて、おおむね見終わる。南門から外へ出て食事。その後ホテルへと荷物を取りに戻る途中、一台のタクシーがいたのでWが交渉。140元で済南まで行ってくれるという。高速代も込みでこれなら安いということになり、彼のタクシーに決めた。ホテルに移動して荷物を受け取り、一路済南へ向かう。午後4時くらいであった。

運転手は陽気だがなまりがひどく、Wを除く三人はあまり彼の言うことが分からない。泰山との別れを惜しみながら周囲に目を向ける。都市と都市を結ぶ田舎道らしく、所々に店がある以外はおおむね畑である。時折り見える建物は、北京とは違って赤レンガの壁が目立った。全体的に土地が乾燥している。北京にいるとき、テレビが北京市の緑化率を誇らしげに報道するのを見たことがある。しかし多少なりとも良くなっているのは市内だけで、郊外の砂漠化は以前進行中だという噂も聞いた。こちらではたいしたことはないのだろうが、北のほうに行ったら実際はどんな光景が展開されているのだろうか。

片側二車線の道路はやがて渋滞し始めたが、北京の渋滞を知っている人間からすればこんなものは渋滞に入らない。ところが、運転手はタクシーを脇道に入れた。不審に思った一同を代表してWが彼に理由を尋ねると、彼はこちらのほうが早いという。さっきまでの道よりも数倍さびれた風景に変ったことから一瞬騙されるのではないかという疑念が頭を過ぎる。しかし、そうではなかった。確かに速くなったのだ。

道路はさっきまでよりも狭く、片側1.5車線くらい。大型トラック二台がすれ違うのはすこし神経を使いそうな感じである。そんな道を、おれたちのタクシーはすごいスピードで飛ばし始めた。最低80キロから最高130キロくらいのスピードを維持したまま、途中で出会う車を悉く抜き去っていく。クラクションはほとんど鳴らしっ放しに近い。助手席で先生が顔をひきつらせる。おれも最初はすくみ上った。

ところが、よく見ていると実に運転が合理的だった。見通しが利かない場合は決して追い越しにかからないし、センターラインを無視してでもアウトから追い抜こうとするのは道路の端にいる自転車や馬車を警戒しているのだ。それに気付くと、おれは彼を信用した。あとは楽しむのみである。隣に座っているWとMは最初から楽しげだ。Wが「あんたの運転は速い」と言うと「自分の車のときはもっと飛ばす」とか「気分が悪いならゆっくり走ってやってもいい」なんて答えが返ってくる。まだまだ彼にとっては余裕があるのだ。

結局、済南市街に入るまではずっとその調子で飛ばしたために、一時間ちょっとで済南に着いた。運転に感心した先生が150元払うと彼は大喜びで帰っていった。おれたちのために使うはずだった高速代も含めれば、今日の彼は随分稼いだことになるのだろう。それにしても鮮やかなものだった。

その後、無事に切符を受け取る。最も値段が高い軟臥はこれが初めてだ。夕食後は、軟臥に乗る客ならタダで使える高級待合室で時間をつぶす。発車が10時くらいだったために待ち時間の長さに苦しんだが、乗ってしまえばすぐに眠れるくらいの疲れはあった。翌15日午前6時過ぎ、北京に帰着。