文化侵略について

今月末から来月にかけて、かなり旅行にいくことになった。まず来週半ばから杭州へ、来月半ばくらいには福建へ行くことに。前者は学会絡み。前回同様、学会に出て、その後ゆかりのある土地を見る。後者はおれの所属する専攻が主宰する、留学生が対象の旅行。こちらも同じ専門のなかでの旅行になるために、歴史的な名所旧跡をめぐるものになる。なんだか留学生らしくなってきたなあと思う。

そういえばまだ書いてなかったけれど、今週末の長城と十三陵は無し。気が付いたら申し込み期間を過ぎてた。まあ近いからいつでも行けるでしょう、などと言い訳してみるが、こういうことを言ってると最後まで行かないということになりかねないので注意したい。それより、例の天津の友人が体調を崩して一時は入院までしたそうなので、近日中にまた天津に行ってこようと思ってる。

こちらに来てからフットワークの軽い人間になった気がする。日本ではコンビニに行くことさえ面倒がっていたというのに、そんなおれが今となっては寸暇を惜しんで外出している。中国への愛着、大学内の退屈、日記のネタ探しなどの動機に支えられて、限られた留学期間を活用する気であふれている。貧乏性とはこういう状態を指すのだろう。

前置きが長くなった。文化侵略についていささか思う所を。

今日、新しく別の家庭教師を紹介してもらった。これまでにおれが知り合っていた家庭教師は二人いた。一人は既出の日本語ぺらぺらの彼女、Wであり、もう一人は東北出身の若いLという青年である。しかしおれはもっぱらWとばかり会っていて、Lとはたまにメールのやりとりをするくらいだった。だが、Wは忙しくておれの勉強にばかり付き合っていられない。もう一人くらい家庭教師が欲しいと思っていたところ、Lが友人を紹介したいと言ってきたのが昨日の事だ。そして今日、Lの古い友人であるTという女性を紹介されたのだ。彼女とは今日が初対面で、それなりにぎこちなく会話していたわけなのだが、おおかたの若い中国人の例にもれず、彼女もまた日本のアニメを好むことが分かった。それにつられて彼のほうも作品名を挙げて自分のアニメ歴を話してくれた。

今おれは「おおかたの若い中国人」と書いたが、実際は東アジア全域についてあてはまる。寮の中では韓国人の部屋から宮崎アニメの音が聞こえてくるし、この日記に何度か登場している台湾の留学生も、初対面のときにそうした話をしてくれた。事実、本屋に行けば大量の日本製のアニメやゲームを目にすることができる。北京に来る前から聞いていたことではあるが、日本文化の浸透ぶりには目を見張るものがある。

友人たちには周知のことだが、おれは今でも某対戦格闘ゲームの熱烈な愛好者で、それゆえ今も週末には一時間以上かけてゲーセンまで遊びに行っている。そのせいで飛躍的に中国人の友人の数が増えた。彼らはおれが日本人だと知ると、積極的に話し掛けてきてくれたし、最も親しい友人はおれを家まで誘ってくれた。

おれがこちらに来てから日本人であることを根拠に非難されたことが無い理由はいくつか考えられるが、その中でもかなりの部分を日本文化の浸透に負っていることは確実だ。今の中国の若い世代にとって、日本は何よりもそうした文化を生み出した国なのだろう。無論、彼らとて中国式の歴史教育を受けているし、例の日本語ぺらぺらの家庭教師Wは、おれに向かってごくごく控えめな口調で小泉の靖国参拝を批判したが、だからといっておれを非難しようとはしなかった。

第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北である以前に文化の敗北であった」とかなんとかいう発刊の辞がついていたのは何文庫だったろうか、あるいは新書だったかも知れない。今おれは、日本の文化力が向上したことに対しては素直に感謝している。実際、例えばかつての韓国のように日本文化を締め出すという政策が中国にあったとしたら、これほど快適に過ごす事はできないに違いない。逆にいえば、門戸を閉じる事で文化侵略から自国を守ろうという発想自体は極めて有効なのだろう。その前提である、純粋な自国の文化という考え方の是非を抜きに考えるならば。

しかし歴史的に見てみると、武力によるものは別だが、日本は常に外部から文化侵略を受ける国であって、自らが攻める側になることはなかった。明治維新以降は西洋の、それ以前は中国の影響を抜きに日本文化を論じることは不可能だ。本居宣長がどれだけ漢意を批判したところで、原初の純粋な日本など取り戻すすべは無いし、そんなものが存在するとも思えない。山井鼎が四庫全書に収録されたとか、荻生徂徠考証学者に引用されたとかいう話とは違い、いまや日本の基準がそのまま海外で通用してしまう時代だ。史上空前といっても過言ではないだろう。

だが、こうした事態はおれを却って反省させる。アジアの若い世代が現在の日本のことを知っているようには、おれは彼らの現在を知らない。中国の若者がアニメの話をしてくれたときに、おれが話してあげられることは三国志とか水滸伝になってしまう。頑張っても張芸謀どまりだ。専門の知識はあるから、古い中国についてならいささか話しようもあるが、今の中国を語るとなると言葉に窮してしまう。おおかたの日本人は日本文化の浸透ぶりを異文化コミュニケーションとか相互交流とか言って手放しで喜んでいるのだろう。おめでたいことだ。何が「相互」なのだ。

現実には文化侵略はそれ自体としては起こり得ない。所詮経済活動の結果に過ぎないことくらいはおれにも分かる。宣教師ですら経済とは無縁ではなかったのだ。中国や韓国に日本文化が紹介され続けたのはそれが商売になるからだ。侵略する側が無自覚なのもおそらくそこに理由がある。誰もそんなことを頼んでいないのに、勝手に受け入れておいて侵略なんて言われても、といったところか。その気持ちは理解できるし、他人がどう考えようと正直知ったことではない。ただ、そこに居直るようになったならおれは自分が嫌いになるだろう。