Chinaの車窓から 番外編

帰ってきた。友人のほうはまあまあ。完治とは到底言えない様子だったが、それでも自らの状態を省みずおれを韓国料理に誘う根性には感心した。腸炎で入院したと聞いていたのだが。まああの調子なら大丈夫だろう。

行きの列車に乗っていたときのことを少し。今度の天津行きは、二階建て列車の二階席を取れた。しかも窓側である。初めての二階席で、おれが外を眺めるのに意識を集中したとしても、それは当然の流れだと思う。すると、確かに前回見つけられなかったものを見つけた。

とある工場の裏を流れる小川は、水が完全に茶色になっていた。しばしばメディアで環境保護を訴えているのを見かけるが、現実にどの程度の取り組みがなされているのか、実際のところはわからない。ただ、地方に行くほど酷い光景を見ることになるのだろうという予想はある。

それと、初めて中国で墓地を見た。こういうといささか語弊があるが、要するに皇帝や将軍や儒者ではない、一般人の墓地ということだ。畑の中に点々としている土饅頭が墓だと理解できるまで、かなりの時間を要した。墓石すら確認できないものがほとんどだったのだ。以前、山東で孔林を見学したときにも、森の中に点々としている土饅頭が何なのか、はじめのうちは理解できなかった。ただ山東には立派な石碑を伴った土饅頭も多かったために、それらが墓であることを知るのは比較的容易だったのだ。

孔林に葬られているのは孔子の血縁だが、天津に向かう途中で見た墓にはそうした著名な人物などいない。それは外見ですぐにわかる。孔林の石碑はおれの身長より高いものさえ珍しくなかったが、天津への途上で見たものはそれよりずっと小さい。電車の中からだからはっきりしたことは言えないが、多分おれの腰くらい、それどころか、なんらのしるしも見当たらないものが大部分だった。

ああして畑の中に葬られた人々は、歴史的には存在しないも同前の扱いを受けることになるのだろう。史料には残らない人々。でも彼らは確実に存在した。「一将功成って万骨枯る」とはよく言ったものだ。

一度目には全く気付かなかったものが、今になるとよく見える。これが二階席のせいならば気分も楽なのだけど。大抵の留学生は、三ヶ月目くらいから中国に嫌気が差してくるそうだが、おれは果たしてどうなることやら。