Chinaの車窓から 杭州・永康篇

杭州といえば西湖。

27日。泰山のときも一緒だったMとともに、夕方発の夜行列車に乗って杭州へ向かう。初めての南方である。安いほうの切符が取れなかったために、最高級の軟臥になってしまった。高くついたがゆとりのあるスペースを持った寝台は快適ではある。とはいえおれはもともと神経質なために、列車の中ではよく眠れない。外の景色が見えればそれなりに気がまぎれるのだろうが所詮夜行なので見えるはずも無い、と思ったら満月に近い月があたりを明るく照らし出している。月明かりの中の線路と風景とを眺めているとどうも出来すぎなのではないかという感もあったが、外を見ながら眠気を待った。
28日。朝方に上海付近を通過。上海の携帯電話会社が「ようこそ上海へ」というメールを打ってくるが、今回はここで下りるわけにはいかない。
朝八時半くらいに杭州に着。Mを今回の学会に誘った本人であるQ先生が迎えに来ていて恐縮するも、この列車にはおれたち以外にも参加者が乗っていたことを知って安心する。Q先生は日本への留学経験があり、そのため日本語もかなり話せるのが心強い。タクシーに乗って会場となるホテルに到着。道路を一つ挟んだ向こう側はすぐに西湖で、観光地のホテルとしては最高の立地条件といってよいだろう。最近建てられた新館と、百年以上の歴史を持つ旧館からなるホテルはおれたちには分不相応だが、これも学会の恩恵である。あとで聞いた話では、今回おれたちが払った参加費は正規の費用の半額だったらしい。
初日の今日は到着を告げれば他にはやることがないので付近を散歩して時間をつぶす。午後になって学会の書類一式を初めて受け取り、一緒にお土産をもらう。本は予想していたが、なぜか工具セットが入っていた。使い道はあるが、もう少し軽い土産を用意してくれればいいのに。参加者一覧を見るとおれたち以外は皆教員であることに気付いていささか尻込みするが今さらどうにもできない。振り返ってみれば、前回の山東行きのきっかけとなった学会もそうだった。どうも中国の学会は日本のそれとは違うらしいとようやく理解し始める。
Mは散歩に行ったがおれは部屋で少し休み、それから一人で岳飛廟へと向かった。およそ中国の歴史に興味のあるもので、岳飛と聞いて興奮しないものはいないだろう。しかし行った時間が遅かったために駆け足で見ることを余儀なくされる。加えて愛国主義教育の拠点となってしまった廟にうんざりさせられる。ホテルに戻って食事の後就寝。
29日。今日は午後から開会式があるのだが、その前に周辺の観光が予定されている。眠い目をこすりながら食事を済ませてバスに乗り込む。まずは雷峰塔へ。西湖のほとりにかつてあった塔の跡地の真上に、近年新たに塔を建て直したもの。一階フロアの中心が跡地の展示室になっていて、その上に建て直された塔があり、各階に通じるエレベーターが中央に設置されている。名古屋城だってエレベーターなのだから文句も言えないだろうが、興ざめには違いない。眺めはさすがに素晴らしかった。ついで龍井という茶の名産地へ。ここではお茶を飲んだだけ。それから胡雪岩故居へ。かつて豪商の住まいだったところで、建物の装飾や庭園などは見ごたえがあった。
ホテルに戻って昼食、そのあと開会式へ。こちらの学会はしばしば官主導で行われるのだが、今回もその例にもれず永康市人民政府の役人が多数顔をそろえた開会式だった。式の終了後は宴会。調子に乗って白酒を飲んでいたら隣にいた永康電視台の記者からインタビューを申し込まれるが当然断った。こんなところでデビューしたって何にもならないし、万が一知人の目に触れたら一生ネタにされてしまう。おおいに酔っ払って寝る。
30日。この日は一日中学会、会議を聞いて終わった。
31日。参加者は永康へと移動。ここの政府が主催者であることは前述のとおりだが、その理由は今回の学会のテーマである人物がここの出身だからである。彼の墓の見学等の後、閉会式が予定されている。
永康までは高速バスで約三時間、高速道路は最近整備されたらしく非常に立派なものだ。この間に南方の土地をゆっくり観察できたのは良かった。南方でもかなり海に近いこのあたりは山岳地帯で、地図を見ると山の間の盆地にそって街が出来ているのがよくわかる。省の総面積の半分近くが山岳地帯というほどだ。確かに周囲には山が多く、非常に起伏に富んでいる。畑ばかりの北方とは違い、水田も多い。それはとりもなおさず水が豊富だからだ。所々にある池にはガチョウや鴨が泳いでいる。山の斜面には段々畑、茶畑と果樹園が多い。その他に墓地も目に付いた。かつて天津に行く時に見たものとは違い、赤レンガ製で釜戸のような形をしており、それが山の斜面に点々としている。墓地を除けば、日本の農村を見ているようだ。送電線が目立つのも日本に似た感覚を呼び起こす。北京では電線をあまり見ない。トロリーバス用のものが僅かに見えるくらいで、残りは全て地下のようだ。そんな農地を抜けて町並みに入ると、赤レンガの平屋が軒を列ねている古い町並みと、パステルカラーの外壁とバルコニーがついた三階建ての新築がおもちゃのように立ち並ぶ新興住宅地とが交錯しており、ここでも中国の変化を体感させられる。
金華のサービスエリアで一休みの後永康に着。予想よりもずっと発展している。人民政府が手配したパトカーに先導されて、バスはまず観光へ向かった。最初に墓を見る。いきなり「熱烈歓迎○○学会御一行様」という横断幕。パトカーといい、横断幕といい、政府主導とはどういうものかを思い知る。墓自体は最近修復されたもので、あまり興味を引くようなものではなかった。次いで方岩という山へ移動。麓のホテルで昼食の後、山を登る。またも登山であるが例によって石段が完備されている上に標高もそれほど高くないのでたいしたことはない。頂上には広慈寺という寺があって、こんな立地にも関わらず多くの客が線香を供えていた。その後徐震二公祠へ。ここの内部の装飾は、おれが中国に来てから今までに見た中でも最高ランクの出来栄えで、実に素晴らしいものだった。

かつてここの一部を日本軍が破壊したという解説を読んでMと二人でおおいに憤慨する。こんな素晴らしいものを破壊するとは実に嘆かわしい。もっとも、解説はそれ以外の受難の歴史をも赤裸々に語っており、文革は勿論のこと、かつては市政府の倉庫や宿舎にされていて、装飾は調理の際に出る油のせいで汚れきっていたという。保護に乗り出した当局が最初にやったことは、ここに住み着いていた民間人を追い出すことだったそうだ。
市政府の建物で閉会式。ここでも政府の領導が多数出席しており、今回の学会の意義とか江澤民の思想とかを「同志諸君!」といって語りかけてくる。ちなみに、現在の一般の中国語では「同志」というと同性愛を指すそうだ。主席も草葉の陰で泣いていることだろう。
ホテルへ移動して晩餐会。中国の教授に勧められて断れなくなり、ビールを水のように飲む羽目に。ほとんど一気飲みのノリでグラスを空にし続けた。参加者の大半はこのあとバスで杭州へ戻るが、おれたちはどうせここで一泊するので別に心配もない。予想したほどには酔うこともなく、バスを見送ってから就寝。いよいよ明日から自由行動、最初の目的地は天台である。