Chinaの車窓から 天台篇

国清寺。奥は豊干橋。

11月1日。朝五時半に起床。バスが六時半のためだ。チェックアウトを済ませ、タクシーに乗ってバス駅に移動。ワゴン車並みのぼろいバスを予想していたが、実際には普通のバスだった。バスに乗ったころから激しい雨になるが、移動中ならどうということもない。ホテルで買った菓子を朝食代わりにして、11時近くに天台に着いたころには雨はあがっていた。
一目で旅行者だと分かる格好のおれたちにまとわりついてくるバイクタクシーを振り払いながら、市内バスに乗って町外れにある国清寺の近くへと移動。ホテルにチェックインを済ませる。しっかり値切れたのは良かったが、なぜか別々の部屋をとってしまい値切った意味がなくなってしまった。
12時に近かったが、食事は向こうで見つけられるだろうという予想のもと、休むことなく国清寺へと向かう。ここは地名からも想像がつくだろうが天台宗の総本山で、かつて最澄をはじめとして数多くの日本の学僧が学んだ土地だ。周囲は完全な農村の風景で、これまでにおれが訪れた中国の土地ではもっとも田舎らしい風情である。天台山一帯への入場券を買い、斜面を右手に、まばらな並木とその向こうに広がる畑を左手にしながら道路を進むと、最初に目に入ったのは隋代に作られた隋塔。この塔は修復されておらず、多少は破損したものの、おおむね原型を留めたままに千三百年くらいの時を経ていることになる。
さらに進むと国清寺が見えた。肌色に近い茶色をした壁には「隋代古刹」の文字。宋代に作られたという豊干橋を越えて入り口へ向かう。入場券には香花券と名づけられていた。中は落ち着いたたたずまいだが、日本の仏像を見慣れたおれにはこちらの仏像はいささかけばけばしい。赤や黄色などの原色を使いまくっているせいだ。もはや観光シーズンではないし、加えて平日だというのに多くの人がここを訪れている。線香は絶えず焚かれているし、読経の声も聞こえてくる。隋代からあるというからにはさぞかし古いものがあるに違いないと思っていたのだが、その期待は軽く裏切られた。この寺は現在でも道場として立派に機能しており、つまりは遺物を保存するという感覚よりは、実際に使用する人間の便宜を考慮しているためだろう。牌廊に並んでいる碑も、ごく最近のもの、それも寺に寄付をした人間の名前が刻んであるものが多い。中には日本人の名前もあった。それでも、創建当時から現在に至ってもまだ枯れていないという隋梅や、明代、清代くらいの石碑、王義之の書を模写したと伝えられる鵞字碑などを見る。
2時をまわってしまったので、食事のできる場所を捜すが予想に反して見つからない。天台まで来てこれでは情けないとも思ったが、快餐屋で麺をすする。とりあえず空腹は収まったが、どうせこの付近を見終えることなどできないので、ホテルに一度戻ってから明日以降の切符の手配に向かうことにした。完璧にこの周辺を観光しようと思うなら三日くらいはかける必要があるだろう。
寧波行きのバスの切符は簡単に入手できたので、市内の観光へ。地図を頼りに孔子廟へ向かったものの、修理が未完なのか内部に入れない。疲れもあったが、孔子廟の西側、つまり左手に古い民家が見えたのでそちらへ行ってみる事にした。狭い路地を見ると入りたくなる習性がついたようだ。取り壊される前の古い町並みは例によっていささかの悪臭が漂っているが、こうした路地を歩くのはおれにとってなによりの観光である。孔子廟から大体北東の方角へと通り抜けて、それから普通の舗装道路を少し南に戻ると修復された城門が見えた。おれたちが今通り抜けたのは旧城の中だったことに初めて気付く。そうとなれば城内を散歩しないわけにはいかない。
注意して見てみると、なるほどあちこちに遺物と、かつて遺物が存在した事を示す碑が立っている。城に入ってすぐ左手には観音寺があった。入っていくと中では大勢の人が線香を上げている。するとMがおれを早く出るようにと促した。とりあえず従って外に出てから理由を尋ねると、寺の看板には今日の午後6時から葬式があると書いてあったという。こういってはあれだが、一目見てみたかった。狭い路地の上には、そこのかつての住人が親孝行で表彰されたことを示す、清代の額が掛かっていた。一人の老婆がおれに話しかけてきたが、南方なまりとおれの学力不足でまったく聞き取れない。自分の事を棚に上げて「共通語をしゃべってくれ」と頼んだが、老婆は首を横に振りながら軽く苦笑いをして行ってしまった。路地は乗用車が一台通れるくらいの広さしかなく、その両側には建物がひしめき、露店が並んでいる。犬の鳴き声、木材を削る音、そして喧騒に包まれたこの路地は、おれがかつて北京で過ごした最初の4日間を思い出させてくれる。そのためか、おれは気分が高揚していくのを感じ、疲れも忘れて歩きつづける。
おれたちは一つの碑の前で足を止めた。地図には張世傑の祠があると記されている。そして文物保護指定の碑も建っている。しかしどうみてもそこは単なる民家であり、とうてい祠には見えない。門の中から少女がこちらを怪訝そうに見ている。二人であれこれと推測を並べていると、中から一人の老人が出てきた。テンションが上がっているおれはためらうことなく彼に対して「ここは張世傑の祠でしょう?」と尋ねると、「もうなくなった」との答えが。共産党が国民党を追い出してからここは街の老人たちの集会所になったが、その後建物を修理したときにほとんどのものは失われたという。納得して帰ろうとすると「まあ入っていけ」と言う。おれは、観光地ではないこうした普通の民家を中から見る機会はまだ一度も得ていなかったので、喜んで彼の申し出に従った。四合院を模した、四方を門と建物に囲まれた中庭に立ってみる。門の両側は物置になっていて、いくつもの道具が雑然と積み重ねられている。左右はそれぞれ厨房と居住地に見えたが、博物館でもない普通の民家を執拗に観察するのはためらわれたためによく覚えていない。今思えば、この辺がおれの煮え切らないところだよなあと反省させられる。正面には一番大きな広間があって、主席の写真が壁に貼られている。大きめのテーブルがいくつも並ぶその部屋は、かつては祠の中心だったのだろう。老人がお茶を勧めてくれたが、さすがに断ってそこを後にした。
ホテルに戻ったのは5時半くらい。忘れていた疲れがどっと出たので6時半に食事にしようということにしてそれぞれの部屋へ。約束の時間になったのでホテルの食堂へ向かうと、なんと既に明かりが消えている。受け付けの小姐に「もう終りか」と尋ねると、彼女は謝った後に近くの別のホテルへ行けばいいと教えてくれた。ところがそこにも人気が無い。屋外にいたボーイに食事をしたい旨を告げると「遅すぎる」という答えが帰ってきて仰天した。中国の田舎とはどういうところか、まだまだ研究が浅かったようだ。それでも彼は親切に別の食堂を教えてくれた。その際に彼に「台湾人か?」と言われてさらに驚く。中国語が上達した結果だと思いたいが、実情がどうであったかは分からない。しかしその食堂はなんと結婚式の会場になっていて入れない。途方にくれたおれたちは駅の近くまで出る覚悟すらしたのだが、バスかタクシーに出会うより先に一軒の食堂らしきものを見つけた。Mはかなり気が進まない様子だったが、おれは腹が減っていたので彼に構わず店へと向かう。
入り口近くにいた男に食事がしたいというと、彼は入れと言った。しかし入り口から中を覗くと、やや縦長の八畳間くらいのスペースにはテーブルが三つ、一つのテーブルには客らしい若者が二人、もう一つには、恐らくここの住人であろう、一人は中年、もう一人は老人の域にかかっている農夫二人が、妻とおぼしき中年の女性とテレビを見ながら紐とビーズを使って内職をしている。最後のテーブルには子供がいてやはりテレビを見ている。テーブルはともかく、椅子はポリエチレンの粗末なもので、到底店には見えない。入り口のすぐ隣には厨房があり、そこで農家の主婦といういでたちの中年の女性が料理を作っていたが、それが目に入らなかったならおれたちは帰っていたかもしれない。場所がないと文句を言うと、老人が子供をどかして席を作ってくれた。こうなっては腹をくくるより仕方ない。
共通語をしゃべるだけで「お前らどこから来たんだい?」と尋ねられる。「北京から」と微妙な答え方をしてメニューを要求したが、そんなものは存在しない。「自分の目で確かめろ」と言うので厨房を見てみるが、見たところで何が注文できるわけでもない。名前がわからないからだ。結局若者二人が食べていた麺を頼む。子供がやってきてお茶を淹れてくれた。待つこと数分、おそらくあれは北京で言う三鮮麺なのだろうが、あきれるほど美味かった。最初は及び腰だったMも満足げだ。しかし支払いのときにちょっとしたへまをやる。南方なまりでは「十」と「四」の発音が近くなる。そのためおれは十元要求されたのを、四元だと勘違いしたのだ。それでも、ここのシェフである女性はおれたちが帰るのを門の外まで来て見送ってくれた。ホテルに戻り就寝。
2日。昨日の夕食で懲りたおれたちは早起きして食堂へ行った。ところがそれでも人の気配がない。フロントに行っても人の姿がないので日本語で悪態をつくと、昨日の小姐が髪を直しながら起き上がった。フロントで寝ていたらしい。食堂に人がいないと文句を言うと、彼女は内線で問い合わせてくれた。やりとりの後「もう大丈夫」と言う。どうやら皆寝ていたようだ。さっきの電話を受けて慌てて作ったことが一目でわかる食事を済ませる。その後Mは元気に一人で観光に行ったが、おれはさすがに疲れていたのでホテルで二度寝。11時くらいにチェックアウトを済ませ、バス駅でバスの発車時刻を待った。次の目的地は寧波である。