Chinaの車窓から 寧波篇

天一閣内の麻雀博物館にて。

2日。午後三時前に寧波に着。永康−天台間の移動は予想よりも時間がかかったために今度はいささかゆとりを持った時間を設定したのに、きちんと駅で聞いたとおりの時間についてしまった。高速道路がよく整備されているためらしい。
列車駅近くのホテルにチェックイン。今度は正しく値切れて満足する。まだ時間が早かったために街中へと向かう。かつては城を囲んでいた堀と、そこから伸びる水路が縦横に街中を走っている。最初に目に付いたのは関帝廟。しかしまたも中に入れない。隣には仏教居士林という寺(?)がある。かつては廟であったり宿場であったりしたらしいが、二十世紀初めに今のようになったという。中ではまたしても数多くの参拝者が読経をして、線香を供えている。かつて山東の孔林に行ったとき、S先生が「孔子の墓だっていうのに、線香一本ないね」といった言葉が思い出される。やはりこの国の一般民衆にとって、儒は遠い存在だったのだろうという印象が強まる。そういえばまだ道観を見ていない。なぜか中には関帝廟を修復しようという内容の看板が多数あった。隣の関帝廟はここで集めた寄付金で再建されたらしい。
月湖という湖と、そこに作られた公園へと向かう。なにげなく寄っただけだったのに、思いのほか見るものが多い。小さな博物館が10ほど密集しているのだ。その密度のせいか内容はあまり覚えていないが、ともあれこの街は見るべきものが多いらしいという印象を深める。そこから少し北に歩くと鼓楼が見えた。普通鼓楼というのは町の中心部に建てられ、そこから町の全体に対して時刻を知らせる役目を持つ。恐らくここが旧城の中心だったのだろう。しかし、いくら時計の役目を果たしていたからといって、なにも昔ながらの鼓楼の建物の上に時計台を設けなくてもよさそうなものだ。鼓楼の近くにある商店街を流してみる。本屋があったので入ってみると、中国の本屋では初めてヌー○写真集をみかけた。しかしその売り方たるや、デッサンの手本とか、ボディペインティングとか、とにかく芸術という文字でごまかそうとしている。涙ぐましいと同時に、これで潜り抜けられる中国の法律とは一体なんだという疑問にとらわれる。
食事をしようとなったが、おれがここ三食の平均が一食五元という低さなのにあきていたために、強硬に海鮮料理を主張。Mはいささか不満そうだったがそれなりに良さそうな、かつ幾分高そうな店に入る。注文の際にかなりてこずったものの、いざ入ってしまえばMだって海老を美味そうに食べたし、おれは蟹のたたきとでも表現するのが適当だろうか、その料理があまりに酒に合うのでそればかり食べていた。結局二人で120元くらい。日本円にすれば一人あたり千円にいかない。こういうときだけ日本円でものを考えればいつでも得した気分になれる。いい気分で寝る。
3日。寧波は大きな都市なので食事には困らない。ホテルの向かいの快餐で包子とワンタンの朝食。チェックアウトを済ませてから荷物を預けて町へ出る。
そもそも寧波には阿育王寺などいくつもの名所があるのだが、我々の目的は最初から天一閣と決まっていた。その天一閣へ向かう。ここは中国でも現存最古の個人による蔵書楼で、その庭園の美しさからもよく知られている。ホテルから見て、月湖の手前にある河に沿って北上するとすぐに天一閣についた。中に入るとなるほど噂に違わない。修復が行き届いているせいでもあろうが、ここの魅力は修復による興ざめをも上回る。広大な敷地に並ぶ建築物と庭園は、かつてここが個人の持ち物だったという事実を想像することを困難にしている。建築物に施された装飾も見事なものだ。ここの蔵書は、かつてほどではないにしろ現在でも貴重なものである。Mがもの欲しげに展示された本を眺めている。おれはおれで、庭園を歩き回るのに忙しい。碑廊で近隣から発掘された大量の石碑を見る。

碑廊の隣の敷地には麻雀博物館が設置されており、石造りの牌などが展示されていた。どうも麻雀を完成させた人物は寧波の出身らしい。「当館の設立に当って日本の麻雀博物館の多大な協力を得たことは近年の美談である」とかいう文言におおいに笑う。なるほど、すべての展示に日本語がついているし、盧溝橋に勝るとも劣らない正確な日本語だった。しかし、いくらなんでも日本の麻雀人口3000万人は言いすぎだろう。
さらに奥には秦氏支祠というかつての家廟があった。ここも修復されたとはいえ立派なものだ。廟の中にある舞台がとりわけ光っていた。天一閣以外にも見られる場所があれば行くつもりでいたのに、結局午前中を全て天一閣に費やしてしまう。あまりに観光客らしい観光しかしていないので町歩きがしたかったのだが、それはまたの機会に譲らなくてはならなくなった。
駅に戻ってまた海鮮。ただし今度は安い店にした。それでもうまいことには変りなし。荷物を受け取ると列車駅の待合室で午後1時ちょっとの列車を待った。今思えば、寧波はいい観光地だったと思う。観光地としての商売っ気と、実際の観光対象とがうまく折り合っていた。最後の目的地は紹興である。