Chinaの車窓から 南京篇(4)

入り口近くのモニュメントを後ろから。

30日。朝起きると、外はなんと雪だった。聞くところでは南方での降雪は数年ぶりのことだという。ホテルで朝食の後チェックアウト。朝食代が宿泊費に含まれていなかったために予想を越える金額になっていて驚く。荷物を預けて、さて出発というときにおれは最後の説得のつもりで「お前、もう南京に来る機会無いだろう」というと、Eも素直についてきた。昨日の話を書いた上でこういうことを書くのもあれだが、もともと、紀念館ではさすがに日本人と名乗りにくいということでおれたちの意見が一致していたというのも彼の決断を促す一因であったのだろう。南京城の西南にある大虐殺紀念館まではバスで移動した。
到着したのは11時くらいだったか。事前に聞いていたとおり、入場料は無料である。平日ということもあってか、それほど人は多くない。門をくぐるといきなり三十万人の被害者を記念するモニュメントがある。さらにその奥は広場になっていて、突き当たりにもう一つのモニュメント、攻撃を受けた当時の南京城とその民衆の苦しみを表現したものだという。左手にあるコンクリートのスロープを登る途中に展示施設の出口がある。出口を無視してそのままスロープを登りきると屋上に出た。
屋上から見える正面が南で、さっき通った広場が左手に、間に展示施設を挟んで反対側、つまり右手にある広場はそれ自体がモニュメントになっていて、ここに敷かれた石は全部で三十万個あるとされていた。屋上から三十万個の石がある広場へと下りると、参観者用の通路の両側には、南京全体に散在する虐殺被害者慰霊碑の縮小版が十数個並んでいる。すべての展示に日本語訳がついているのは盧溝橋と同じであって、やはりおおむね正確である。
広場の外周にそった壁には被害者たちの苦痛を表わすモニュメント。そこを通って進むと小さな半地下の展示施設がある。中には被害者のものという人骨が。さらに進むと、現在も新たな骨を発掘中という、いわゆる「万人坑」がある。雪が降るくらいの低い気温のせいでガラスが曇ってしまいよく見えなかったが、中には数多くの人骨が発掘中の姿のままに見られるようになっている。その先には右手へと続く、いくつかの慰霊碑が並ぶ通路があり、突き当たりが先ほどの屋上の真下、展示室の入り口になっていた。慰霊碑の中には日本人が作ったものもある。遺骨の展示の近くにはいくつかの千羽鶴があった。修学旅行で来たのだろうか、高校の名前が目立つ。
展示室内部にはそれなりに多くの参観者がいた。内部は薄暗く、上海攻防戦から南京戦への経過説明に始まって、その後は南京での被害に関する展示が続く。かの有名な百人斬りもひときわ大きな扱いで展示されている。ラーベ日記の著者であるラーべの墓石がドイツから移送されていたのは驚いた。盧溝橋で見たような「日本兵は死体から肉を切り取って餃子を作った」的な記述はなかったように思うが、ちょっと自信がない。ただ、盧溝橋とは違っておれが敵愾心を燃やすような機会が無かったことは確かである。
昨日書いたように、おれは事前にSから南京の紀念館のほうが学術的に数段上だと聞かされていたが、その辺りはおれには判断できない。例によって、おれでも分かるような間違いも無いわけではない。日本では比較的公平な学者すら贋物だとしている写真も数多くあった。百人斬りにしても、現在もその真偽をめぐって訴訟が進行中だったように記憶する。ネットで少しでも検索して見れば、この紀念館の展示にケチをつけている日本人がいかに多いかはすぐに理解できることだ。
それでも、おれは大筋で虐殺の存在を疑ったことは無い。ここの展示は盧溝橋同様、おれにとっては胡散臭いものも多い。そして、そうした真偽に疑問のあるものでも展示してみせるという態度が、おれの気持ちに反発を呼び起こしていることも事実だ。犠牲者数を始め、不確定な部分も数多く残っている。でもそれは本質的なことではない。日本軍が投降した大量の中国兵の処分に困って彼らをまとめて殺したことは、おれにとっては疑問の余地が無い。どうせバターン半島と似たような状況だったのだろう。バターンではまとめて殺したわけではないけれど、万単位の捕虜の扱いにおおいに手間取ったあの姿は、日本軍が、それほど大量の捕虜が出る可能性についてあまり考慮していなかったということを示しているように思える。ちなみに、おれの祖父は陥落直後の南京近くを船で通ったときに、異様な感じを受けたと言っていた。祖父の弟のうち一人は中国で戦死したと聞いている。
紀念館の出口近くには、例によって各国の著名人がここを訪れた時の写真がある。その中に野中広務の姿を見つけて驚く。まさかここまで来ていたとは思わなかった。
結語は、再び他国の侵略を受けないように我々は団結しなければならない、というような感じ。統治が揺らげば侵略に対抗できないのは事実でもあるが同時にこれは、共産党政権が自分の権力基盤を強化するための自己正当化にも見える。世界共通で、権力とはそれに従うことが効率的であるように見せるものだし、別に驚くようなことではないのかも知れない。
展示を見終わってEが出てくるのを待つ間、最初に通った広場を見下ろしながらタバコを吸っていると、若い中国人のカップルが明るい表情で記念撮影をしている姿が見えた。妙に印象的だった。無論、大抵の中国人は厳粛な表情で静かに展示を見て帰っていく。Sから聞いた話では、そんな昔の、しかも楽しくないものなんて見たくない、といった風情の若い人間も多数いたという。中国のジェネレーションギャップはどのくらいのものなのか、まだおれには見当がつかない。この紀念館も当然、中国政府指定の愛国主義教育重点基地である。
展示を見終わったのは午後2時近く。食事をする時間は最早ない。ホテルまでバスで戻るとすぐさまタクシーに乗って南京駅へと向かう。またも駅から離れたところで下ろされたが、これは工事が終わるまでどうにもならないようだ。途中の店で昼食代わりのパンを買い、慌ただしく3時半の列車に乗り込んだ。食事を済ませ、CDを聞きながら雪景色の南京を眺める。考えることの多かったこの街には、是非もう一度来てみたいものだ。三時間ほどで上海に到着するはずである。