「愛国」

今日も北京は強風。どうやら黄砂が来ているらしい。外でタバコを吸っていると時々口の中に砂の感触がある。乾燥した工事現場の中にいるような感覚、といえば想像しやすいだろうか。これさえなければ、中国の春はもっと楽しめる季節なんだろう。
デモの反響も一段落した感がある。今日も大陸のネットには、反日感情の暴走を押さえる文章がいくつもアップされている。面白いことに、一度は解除されたネットの規制が復活したらしい。以前発見したデモに参加した中国人のブログでは、デモ当時の体験記が再び見られないようになっていた。政府の黙認で成り立ったデモは、一部の暴徒のせいで今度こそ制御の対象になったようだ。しかし、こうした宣伝がどの程度有効なのかはまったく予想できないし、こうした規制が政府への「弱腰だ」という反感を招いていくこともありうるだろう。
昨日も書いたように、今後デモがあってもそれほど警戒するには及ばないと思う。それよりも、デモに煽られた市井の中国人に出くわしてしまうことのほうが数段やりにくい。一度火がついたものは、勝手に延焼していくに決まってる。おれも含めて、在中日本人はしばらく頭が痛いことだろう。
暴動にまで発展したデモは深圳、北京、上海、成都瀋陽でもいくらか物を投げ込むなどがあったようだが、打ちこわしの類は無かったように記憶する。要するに、全部経済発展の著しい場所だ。ある程度携帯が普及して、ネットカフェなどの環境が整っていて、経済発展のせいで近隣から貧しい人間が仕事を求めて集まってくる場所、学生や活動家が情報を共有しやすく、しかも人数をかき集めるのが容易な場所だ。
参加者が「愛国」を呼号していたのは確かだが、警備にあたった警察とのやりとりにおいてこの言葉が出てくるのはある意味当然だろう。耳学問だからソースを明示できないのだけれど、戦前の日本でも、逮捕された左翼を特高が説得する際に同じ論法を使ったと聞いている。この説得で転向した左翼は満鉄に就職したりしたらしい。「立場は違うが、目指すものは同じはずだ」という論法だ。当時の日本も含め、独裁政権下では「愛国」という言葉はこのように機能するはずだ。自覚的にか無自覚的にはともかく、デモ隊もこの論理で警察の妨害を排除しようとしたのだろう。
中国政府の現在の宣伝もまた、基本的にそのラインで行われている。「愛国感情を冷静に、正しく表現せよ」とか、「度を過ぎた行動は日本の右翼に反中の口実を与える、従って真に愛国的とは呼べない」とか。「愛国」は政府と老百姓双方にとって一種の殺し文句なのだ。お互いに、その点は共有しているという前提で論を立てる。
現実には、中国政府と人民の間に強固な信頼関係なんてものがあるようにはどうしても見えない。多くのおれの友人、知人はたいてい中国政府に多くの不満を持っている。とりわけ仕事を持っている人間はそうだ。自国に言論の自由がないことも重々承知しているし、腐敗した官僚機構にうんざりしているのである。中国で生活する人々はそうした現実に日々直面しているのであり、彼らの感覚は、普通の日本人が日本での官僚や政治家の汚職事件を見てももはや驚くことすらなく「ああ、またか」と思う状況に、あるいはそうした気風を受け入れて、自らの利益のために不正をはたらくという状況に似ているように見える。