今日は普通の日記を

先日ホル長に頼まれて、とあるアルバイトをやってくれる中国人を探すことになった。おれはおれで、その頼みを友人の中国人に伝えたきりだったのだが、めでたく採用となったTがおれに礼をしたいという。伝言役以外何もしてないのにと思いつつ、まあ知り合いが増えるのはいいことだと思って食事をおごられてきた。
彼は日本文学をやっているそうで、村上春樹が好きだという。「研究のためにはポストモダンの勉強をしなきゃいけない」と彼が言うので、どうしても必要なものじゃないんじゃないかと尋ねたら「どの研究方法が良いか選ぶには、あらゆる研究方法を知っておかないと比較ができないから」と言う。真面目なやつだ。
彼にもちょっとだけデモのことをたずねてみたのだが、彼は「国が後ろで操っていそうな気がする」と言った。中国人の口から官製デモ説を聞いたのはこれが初めてである。彼の友人の何人かは、当日暇で退屈だったから参加したそうだ。やれやれである。
休みが近づいて、帰省や旅行に行く人間が目立つようになった。向かいの部屋のYMは近々日本に行くらしい。あいつの日本語ははなはだ怪しいものだが、日本に友人がいるということだから大丈夫だろう。いい遊び場を紹介しろといわれているのだが、どこを推薦してやるべきだろう。おれはおれで、未だにどこへ行くか決めていない。知り合いの留学生が、九寨溝は素晴らしいとか言ってたのが気になっているくらいだ。
遊び友達の一人が、帰国するとき空港まで送ってやると言ってくれた。やはり持つべきものは友、しかも車持ちだとなお良い。おれの帰国は、今のところ七月末を予定している。

反日感情についての雑感と、レスを

変な時間ですが、今日はこれから用事があって、夜は更新できないかもしれないので。
ピンボケということでしたら、角度を変えましょう。往復書簡めいてきましたが、まあこれも一興。
まずは民間といいますか、日常生活レベルでのことを話しましょう。中国は歴史上、仏教やイスラム教などさまざまな外来の文物を取り入れてきています。その痕跡はいたるところの寺院で見ることができますし、今なお息づいているものも多いわけです。この日記の旅行記では何度もそうしたものを書いてきました。現在については、諸外国の文化はもとより、日本文化が氾濫しているといっていい状態です。何度かこの日記にも書いているように、北京の本屋、CD屋、DVD屋、家電製品、ゲーセン、あらゆる場所で日本の製品を見ることができます。デモ参加者のブログや反日サイトの檄文は、日本製品ボイコットというスローガンと自分たちが享受してきた日本の文化や技術との関係について言及せざるを得なかったし、かのデモのスローガンが広汎な支持を得られなかったのもそうした矛盾のせいでしょう。日本の報道機関も皮肉を込めて報道したようですが、一般の中国人とて、日本製品排斥を叫ぶ連中が日本のデジカメを持っていることに矛盾を感じないわけはありません。
おれの出会った中国人はたいてい、現在の中国がまだまだ発展途上であると認識しているし、そうした欧米や日本よりも遅れているとの意識と平行して、その表裏一体のものとしてのナショナリズムは存在しますから、その角度から反日を議論するのは可能でしょう。また、これは以前大紀元について書いた際に引用した香港の掲示板で見かけた意見ですが「法輪功のような新興宗教が多くの人を魅惑するのは、現在の中国が思想的空白状況にあるからだ」というのです。リンクが切れてしまったようなのでうろ覚えで書きますが、改革開放路線が決まり資本主義の導入が一段落してから江沢民が政権についた際、彼の直面していた課題は、そうした国家体制の変化によって従来の思想が部分的に無効化されてしまった中国にあって、その空白を埋めて思想的統一を再構築することであって、その時期に勢力を拡大していた法輪功は国家の思想的統一を乱すものと考えられた、それゆえ江は法輪功を弾圧した、という内容だったと記憶します。江沢民と言えば最近の日本では愛国主義教育を開始したというイメージが強いでしょうが、かの掲示板の意見を応用してみると、愛国主義教育が出現した背景に思想的空白がある、また、愛国主義が一部中国人に熱狂的に支持される背景にはある種の欠落感やコンプレックスがある、という解釈も可能ですし、これはいずれもあり得る話だと思っています。「憤青」は中国でもけっして好意的に思われている存在ではありません。
そもそも、中国の文化的優位が無効になったという認識は中国近代化の原動力だったはずです。今の中国が自国の文化に最高の価値を認め、かつそれを理由に外国の文化を排除するなどとは到底思えませんし、当然、提督氏の所謂「駆逐」の根拠に中華思想があるとも思えません。神道中華思想が対立するがゆえに中国が靖国参拝を理解しないということではないでしょうし、靖国問題に関する中国政府の決定にも何らの影響も与えていないでしょう。以下、政府間の問題です。
中国政府の説明は具体的に問題の所在を提示しています。それは4月25日にこの日記に書いたとおりであって、最大の問題は日中共同声明の基本思想に抵触することです。声明は中国が賠償請求を放棄するという条項も含んでいますから、声明への背信行為が賠償請求の再燃を産むとしてもそれは論理的です。参拝が声明とは関係ないことを中国政府に対して証明できれば参拝を継続しても話は収まるでしょうが、現状でそれが成功しているとも聞きませんし、おれ自身もそんな証明は思いつきません。それゆえおれはA級戦犯分祀が「一番簡単だ」と書いたのです。中国政府は、日本の一般市民が靖国に参拝することに反対しているわけでもなく、戦犯の祭られていない状態であっても参拝するなと言っているわけでもなく、まして靖国を破壊しろといっているわけでもありません。それと日本側にときおり見られる「内政干渉だ」という反論が通用しない理由はこれであって、中国政府は政府間の約束に背くなと言っているわけです。もっとも小泉首相自身は内政干渉とは思っていないそうですが。
おれはその文脈にそって東京裁判のことを論じていたつもりであって、それゆえそちらが以前「裁くことの無意味さ」と言ったのはA級戦犯というカテゴリーや彼らへの判決、もしくは東京裁判そのものを認めないという意味だと思っていたのですが。そういうことであれば、中国との国交回復時の前提が崩れた以上、国交そのものと戦後賠償の再検討ということになるし、ひいては国連との関係すら見直さざるをえなくなる可能性もある。提督氏が、それらの危険を冒してでも中国と断交すべきだとお考えなのであればそれも一つの考え方ではありますが、遺族会すら配慮を要求してきた現在、A級戦犯を合祀し続けている今の靖国に参拝することにどれほどのメリットがあるのか、おれがいつも疑問に思うのはそこです。
最後に一つ。7日のコメント欄で提督氏が「鬼道」について引用されたサイトの記述は間違いです。『三国志』(歴史書のほうであって、演義ではありません)では道教の一派である五斗米道の開祖、張魯について「鬼道」という言葉を使っています。卑弥呼について使われている「鬼道」という表現に、国家や民族レベルでの差別意識を読み取ることはできません。

再度、こちらでレスを

提督氏にはいまひとつ分かっていただけていないようですが、おれは日本人が神道を信じるか否かを問題にしていたわけではありません。そもそも、このような信じるか否かなどという設問が適当かどうかすらおれには疑問ですが。ここで問題になっていたことは、神道が死生観にどれほどの影響を及ぼすかという点です。
それから中華思想ですが、これについてはいくらでも研究があります。今更おれが言うべきことがあるとも思えませんし、またおれ自身でそれほど研究したわけでもありませんので、ここはひとまずそちらの議論が成り立たないことだけを論じたいと思います。
そちらの考えでは、
1 中国は中華思想のもとアニミズムの残る地域を臣従させて、当該地域のアニミズムを駆逐する。
2 日本は今なおアニミズム神道的要素が根強い国である。
となっている、これはよろしいでしょうか。おれはこのいずれにも同意できませんが、それはひとまず棚上げして、この意見が正しいものとして考えてみましょう。
これまでの歴史上で過去に二回、日本は中国に臣従しています。卑弥呼が魏に対してが一度、足利義満が明に対してが一度です。ということは、どうなるでしょうか。
臣従した地域のアニミズムが駆逐されるなら、今の日本にアニミズムは存在しません。逆に、今の日本がアニミズムの根強い国であるならば、たとえ臣従したところでアニミズムは駆逐されないことになります。典型的な矛盾です。おれが思うに、そちらの意見はそもそも成立しないものにしか見えません。
東条英機を裁くのは日本人自身だというなら、それはおおいに結構でしょう。あれだけ国民を苦しめた責任をどう追求するか、そういった点を議論するのは非常に実りのあることです。大戦当時の日本軍は、ある戦闘で失敗した将校がしばらくするとまた前線に帰って懲りずに指揮を執ってまた負けるという無責任かつ不可思議な集団でしたが、こういう悪習は捨て去るべきことです。裁判の結果を受け入れるか否かという問題を抜きにして言えば、東京裁判が公正なものではないというのは同意できます。しかしだからといって、東京裁判の被告たちの評価をやり直すと言う場合、それは必ずしも東条以下の名誉を回復することを意味しないでしょう。彼らの政治や戦争指導がどのように間違っていたのか検討することは、良い教訓を引き出してくれるに違いありません。

授業終了

我ながら反論のやり方が大人気なくて下品だと思うが、まあ売られた喧嘩だし仕方ないだろう。もうちょっと、普段から隙の無い文章を書いたほうが舐められなくなるんでしょうね、きっと。読者にとっては多少揉めてるくらいのほうが面白いかもしれないが、やってるほうは面倒臭くて仕方ない。
今日で授業が完全に終わった。今後はしばらく図書館に通って、そのあとはさてどこに旅行に行くか、そればかり考えてる。中国の神道研究状況は調べてなかったし、ちょっとやってみるか。期待して無かったけれど、それなりに研究書は出てるんだよな。
学食で食事をしていたら、いきなり斜め後ろから液体が飛んで来ておれのズボンに小さな染みを作った。瞬間的に頭に血が上って、その勢いで後ろを見たら中学生くらいの女の子がトレーを持って立っている。彼女が「対不起」と言って心底すまなそうにしているのを見たら、脳裏に浮かんだいくつかの罵倒語も消えてしまった。さすがにこの年齢相手に使うわけにはいかない。
こっちの授業は、すくなくともおれが日本で受けていた授業よりも雰囲気がいい。大学以上の授業ともなれば、その授業の方向性は教師の個性によって九割がた決まるものだが、それにしてもおれが参加した授業の老師はそろって人格者だったし、学生が意見を述べやすい環境を常に提供してくれた。同じ授業に出ていた韓国人留学生から聞いたのだが、とある教授は学生と一緒にタバコを吸いながら授業をやるそうだ。彼によれば、学生が老師にタバコを投げ渡している場面すらあったという。おれの日本での先生も授業中に喫煙はするが、学生で一緒になって吸う奴は一人もいない。いくら「煙酒不分家」の国とはいえ、すさまじい授業である。日本でもこのくらいやってくれると、喫煙者のおれとしてはありがたいのだが。

長くなったので

レスを書いていたら長くなったので、こちらに。以前トラックバック頂いた提督氏でしょうか。

普通、神道では「森羅万象(自然)に神が宿る」と考えています。
つまり、日本人は死んで土になれば誰でも自然の一部=神の一部になるわけです。
中国人が神道にとまどうのはこの自然崇拝が理解できないからです(あの国はなりたちからして、そういうアニミズムを駆逐することで成立した国ですから)。

自然に対する崇敬の念ということで言えば、礼記の一節には「天子は天地を祭り、四方を祭り、山川を祭り、五祀を祭る」とあります。道教では世界に存在するほとんどすべてのものに神格を認めます。家や竃や病気や建物、ありとあらゆるものにです。中国の思想史にそうした観念が無いとはとても思えません。「アニミズムを駆逐して成立した」とは恐らく現在の人民共和国について言っているのだろうと推察しますが、そもそもこれがどういう意味なのか、具体的に指摘していただけないうちはよくわからないのですが。加えて、文革の時期こそ旧来の価値観を否定することにやっきになっていましたが、あれから約40年を経た今では以前と逆にそうした伝統的な観念を再評価するという方向にあります。おれ自身、北京の某大学の哲学科にいるわけですが、マルキシズムや西洋哲学の他に、儒佛道の三教をどれでも学ぶことができます。中国の大学は9割以上国立であることは言うまでもありません。
ついでに日本については、葬式に関する限り今なお仏教が最大勢力であるように思います。具体的な数字を挙げているところが見つからなかったのですが、一般的には9割程度は仏式だと言われているようです。一応ここで9割といわれてますが。
仏式葬儀の起源(1998.09)
はるか以前、中世までの神道神仏習合が基本ですから仏式でも神道色があったのかもしれませんが、ご存知のように神仏習合は、主に儒家神道家たちによって江戸時代あたりから否定されるようになり、明治に至って完全に分離させられます。9割という数字がどれほど現実的かは別としても、一般的日本人の生死観に神道が入り込む余地は少ないと思います。

で、靖国が特に問題になるのはなぜかという、あそこが国家神道だからです。
国家神道は通常の神道と同じフォーマットでありながら、ちょっと立場が違うんです。
それは明治以降の日本の社会に問題があります。なぜならあの時代、軍隊は国民皆兵で一般庶民と密接につながっていました。
靖国の神様は英雄であり軍神です。ですが、それは一般庶民の代表としての神様なのです。軍人という階層のためだけの神様ではないのです。
日本人の大多数が靖国を尊ぶ理由は以上です。

靖国を尊ぶか」という設問でなくて恐縮ですが、こういうアンケート結果もあります。「大多数」というのは不適切な表現ではないでしょうか。
Yahoo!ニュース
明治時代であっても、国家神道はそもそも宗教とは規定されていなかったようです。西欧列強に追いつくための近代化を強烈に意識していたがゆえの措置でしょうが、これは当時の神道界から相当な反発を受けたといいます。ソースはこちらの二つを。前者のうち、中国に関する記述には同意できませんが、神道に関する記述は有用かと思います。
http://www.h7.dion.ne.jp/~speed/kokkasintou.htm
http://www.worldtimes.co.jp/syohyou/bk030309-1.html

東條元帥が葬られているから靖国は……という論調が変なのは、東條が明治憲法に認められた合法的な首相であることを忘れているからです。たしかに直接選挙で選ばれたわけではないけれど、彼を首相に選んだのは主権者である天皇であり国民だった。つまり彼が戦争を始めたのは日本人全員の総意だったということですね。要するに、当時の日本は独裁国家ではなかったのです。これで東條を裁くということの無意味さはわかると思います。

東郷元帥ではなくて、東条元帥ですか?打ち間違いならともかく、そのような元帥がいたとは聞いたことがありません。東条英機の最終階級は大将だったと記憶しています。また刑死後に特進したという話も聞いたことがありません。それは古賀峰一大将が事故死であって戦死ではないという判断のもとに特進無しだったことと同様のことだと思っていましたが。それと、恐らくはドイツを念頭に「無意味さ」を主張されていることかと思いますが、ヒトラーの政権獲得の過程を批判する人間はおそらくドイツにさえいないと思います。耳学問でソースを明示できないのですが、おれの聞いたところでは、彼の政権獲得までのプロセスは当時の法に照らし合わせても合法的な手段によるものであり、彼は合法的に政権についた後に自国の体制を独裁へと変化させたのであり、その意味では彼もまたドイツ国民の総意の上に首相に、そして総統に就任したはずです。だからといって、ヒトラーの所業のすべてがドイツ国民の総意の上に成り立っていたと言いたいわけでなくて、おれが言いたいのは、ヒトラーは独裁を理由にドイツの歴史上の汚点となっているわけではないということです。それと、ヒトラーニュルンベルク裁判で裁かれる前に自殺しており(東条と違って、ヒトラーは自殺に失敗していません)、独裁を理由にであれ何であれ、そもそも裁かれたことがありません。以上のような理由で、そちらの言われる「無意味さ」は理解できません。以下を参照。
http://www.tabiken.com/history/doc/O/O088R100.HTM

まあ、中国人に面と向かって「日中戦争はお前ら中国人が気に入らなかったから、日本人の総意として起こしたんだ」とはいえませんけどね……(笑)。でも、実態はそんなかんじです。気に入らなかった原因は今の中国のように情報の制限があったから、かな。そのへんは当時の新聞の社説を読むとよくわかりますよ……。

そちらの主張をまとめると、「制限された情報にもとづいて日本国民が気に入らないと判断した中国に対してその日本国民の総意を代表する東条英機が戦争を起こした」となるのですか?それでは事実と合致しません。日本で日中戦争といえば1937年から始まるもののことだと思いますが、当時の首相は近衛文麿です。もう少し噛み砕いて、そちらの論理における靖国日中戦争の関係を説明していただけると助かるのですが。そもそも、日中戦争と、現在の中国政府による靖国参拝への反対との間には論理的関係がありません。それは以前にこの日記に書いたとおりです。当時の新聞については、こちら梶ピエールの備忘録。でも言及されていましたからその通りなのでしょうが、情報に制限の無い現代ですら似たような論調が流行っているというのは、個人的には気分が悪いところです。そちらは快哉を叫んでいるのかもしれませんが。
ちなみに、この日記はおれの友人の中国人も読んでいることはご存知でしょうか。気を使ってこういう話題をやめろとは言いません。しかし、批判したいならもう少し事実に基づいた批判をやっていただきたいと思います。日本の評価がまた下がってしまうのは困るので。

飲み会ばかり

学期が終わるということは留学生にとっては帰国が近づいているということで、最近何かとあわただしい。話題にのぼることがらも、飛行機のチケット、荷物の運送費といったものが目立つようになった。個人的にはもう一年や二年いてもいいくらいな気分なのだが、現実的にはそういうわけにもいかない。逆に、居心地が良すぎて腑抜けになるという言い方もできるだろう。
そういえばある中国人の友人から「来年あたりには台湾との間に何か起こるだろうから、お前は今年で帰れてよかったな」と言われたことがある。本当か嘘かは確かめようもないが、まあ一つの噂である。
話を飲み会に戻すと、先日一緒に飲んだ中国人の院生は食事もある程度進んだところで「あらゆる日本人は死ぬと神になるのですか?」と聞いてきた。やれやれ、と思いながら知っている限りの知識と語学力を総動員して、生前に権力者だったとか死後の祟りが強烈だとか、何か特別な理由がない限り普通は神にならなかったと答えておいたのだけれど、ひとしきりそうした最近の日中関係を話した後、彼は「中日の対立の裏にはアメリカがいる」と言い出した。中国ではけっこうポピュラーな見方だとは聞いていたけれど、実際に、しかも身近な高学歴者から聞くとそれなりにインパクトがある。無論、彼はおれたち(その席にはもう一人日本人がいた)に気を使って、一般論を引き合いに出すことで話題を無難な方向に持っていったにすぎなくて、本人はそんな陰謀論みたいな話を信用していないという可能性もあるけれど、そういった彼の内心の動きまではちょっと読みきれなかった。意外と本気だったりしたらどうしようか。
前にポリティカル・コンパスを眺めていたときに、あれの経済の軸を反米・親米の軸にしたらけっこう面白いんじゃないかと思ったことがあるけれど、中国人から見ると基本的に日本の右翼はアメリカ寄りのものに見えるようだ。東京裁判憲法をめぐる日本人の屈折した感情なんかはけっこう見落とされてるのかもしれない。

勘違い

しばしば耳にすることだが、中国人は簡単には謝らないといわれる。おれ自身もそう思っていたし、ある程度はあたっているのだろうと今でも思っている。この俗言はおれにとってはもう一つ意味があって、日本人は簡単に謝りすぎるという印象があった。
もっともこれはあまり正確な表現ではない。例えば人込みをかき分けて進むとき、日本なら「すいません」といっておけばまず無難だ。かといってこの感覚を中国にそのまま持ち込んで、直訳して「対不起」とか「不好意思」とか言いながら進むのはきっと中国人らしくないのだろうと思い込んでいた。実際そういう場面では「過一下」とか「譲一下」という言い方もよく耳にする。こういう言い方を知らなかった頃、おれはなんとしても「すいません」の直訳を使いたくなくて、でも何も言わないのも変だと思って困っていたものだ。
ところが、現実には中国人でもその場面で「対不起」とか「不好意思」と言う人もいる。最初に聞いたときはけっこう驚いた。おれはあれほど警戒する必要などなかったのだ。ただ、こういう言い方が中国人にとってどういうふうに聞こえるのかはわからない。きわめて礼儀正しい表現なのか、それともごく当たり前の表現なのか、そういったことは判断できない。まあ何も言わずに体当たりしてくる人も多いわけだから、恐らくは相当礼儀正しいのだろう。